英米リーダーの英語 試読

英米リーダーの英語 試読 page 11/22

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27ウィンストン・チャーチルイギリス首相 1874 年、イングランド・オックスフォード生まれ。父は蔵相などを務めたランドルフ卿、母はアメリカ人。 陸軍士官学校を卒業後、インド出征、第二次ボーア戦争従軍などを....

27ウィンストン・チャーチルイギリス首相 1874 年、イングランド・オックスフォード生まれ。父は蔵相などを務めたランドルフ卿、母はアメリカ人。 陸軍士官学校を卒業後、インド出征、第二次ボーア戦争従軍などを経て、1900 年に議員初当選。通商相、内務相を歴任し、第一次大戦中は海軍相、軍需相。 戦後、蔵相を務めた後、第二次大戦の勃発とともに再び海軍相に。40 年、首相に就任し、戦争を主導。総選挙での大敗北を受けて45 年に退任するが、51 年には再び首相の座に返り咲く。55 年、高齢により政界引退。65年、脳卒中により死去。 すぐれた文章家でもあり、53 年には著書『第二次世界大戦』などの功績によりノーベル文学賞受賞。 イギリス国民が最も敬愛する歴史上の人物のひとり。 1940 年5 月13 日、首相就任後、最初に行った国会演説です。チャーチルの前任者であるネヴィル・チェンバレン首相は、ヒトラーのドイツやムッソリーニのイタリアに対して宥和政策を取っていたものの、1939 年9 月にドイツがポーランドへの侵攻を開始し、第二次大戦突入を余儀なくされました。1940 年4 月にはドイツ軍のノルウェーおよびデンマークへの侵攻阻止に失敗し、同年5 月10 日のドイツ軍によるベネルクス3 国侵攻で宥和政策は完全に破綻し、チェンバレンは首相辞任に追い込まれました。 その後任となったチャーチルは、ナチスを敵視した強硬姿勢で知られていましたが、就任時にはその強硬姿勢に疑問を抱く議員もおり、 前政権を支持する者もいました。また、その政治手腕は未知数で、「 お手並み拝見」というムードの中、チャーチルは新首相として早急にビジョンを示し、明確な戦略や方策を打ち出す必要がありました。 そうした中、首相就任3 日後の初舞台で、チャーチルはナチスの脅威について切迫感をもって示しながら、挙国一致の必要性を語り、国民に心の準備をするよう訴えました。それが、この名スピーチとして名高い「血と労苦と涙と汗」です。“I have nothing tooffer but blood, toil, tears and sweat.”(私は、血、労苦、涙、そして汗以外の何も提供するものはない)という言葉に国民は戦争が避けられないことをあらためて認識させられました。 従軍記者の経験もあり、すぐれた文章家また大変な読書家であったチャーチルは、言葉の重要性を熟知していました。緊迫した時代背景をイメージしながら、名スピーチの言葉の重みをじっくり味わってみましょう。スピーチの背景